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東京地方裁判所 昭和34年(刑わ)5306号 判決 1961年12月22日

判決

元早稲田大学学生

加藤昇

(ほか三十二名)

加藤昇、清水丈夫、永見堯嗣、糠谷秀剛、服部信司、林紘義、葉山岳夫、宮脇則夫、吉田晟に対する建造物侵入被告事件(以下一一・二七事件という。)、青木昌彦、生田浩二、江南義之、大島芳夫、奥田正一、鬼塚雄丞、唐牛健太郎、片山迪夫、倉石庸、古賀康正、佐藤就之、篠原浩一郎、下山保、鈴木啓一、鈴木英夫、立川美彦、西部邁、早川繁雄、林道義、平井吉夫、藤原慶久、星野中に対する建造物侵入、威力業務妨害被告事件(以下羽田事件という。)、唐牛健太郎、篠原浩一郎、志水速雄、陶山健一に対する昭和二十五年都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反、公務執行妨害被告事件、糠谷秀剛、藤原慶久に対する昭和二十五年都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反被告事件(以下四・二六事件という。)について、当裁判所は検察官金吉聡、弁護人根本孔衛、林彰久、斎藤忠昭、坂東克彦、平岡高志、浜口武人、前田知克、斎藤純一、岡昌利、鍛治利一、小林勇、松尾翼各出席のうえ審理し、次のとおり判決する。主文

被告人唐牛を懲役十月に、

被告人篠原、同清水(丈夫)、同糠谷、同青木、同鬼塚、同下山、同鈴木(啓一)、同西部、同林(道義)同藤原、同志水(速雄)を懲役八月に、

被告人加藤、同永見、同服部、同林(紘義)、同宮脇、同生田、同江南、同奥田、同大島、同片山、同倉石、同古賀、同佐藤、同鈴木(英夫)、同立川、同早川、同平井同星野、同陶山を懲役六月に、

被告人葉山、同吉田を懲役四月に各処する。

被告人唐牛、同篠原に対し未決勾留日数中百八十日を各右本刑に算入する。

被告人唐牛、同篠原を除くその余の被告人全員に対し、本裁判確定の日から二年間右各刑の執行を猶予する。

被告人佐藤、同志水(速雄)を右執行猶予の期間中各保護観察に付する。

理由

(罪となるべき事実)

一、一一・二七事件以前における安保改定交渉の経過とこれに対する反対運動の概略

サンフランシスコ平和条約とともに締結された日米安全保障条約(以下安保条約または安保という。)は、昭和二十七年四月二十八日発効したが、その内容において日本の自主性、米国に対する対等性に欠ける点があつたため、この条約を日米対等の立場に立つものに改定することがその後の政府の政治的な課題とされ昭和三十年八月三十一日には重光外相とダレス国務長官との共同声明が発せられ、その中で、「日本がその国土の防衛のための第一次的責任をとることができ、西太平洋における国際の平和と安全の維持に寄与することができるような諸条件が実現された場合には、現行の安保条約をより相互性の強い条約に置き代えるのが適当である。」旨宣せられた。岸内閣は昭和三十二年二月に成立したが、岸首相は同年六月渡米してアイゼンハワー大統領と会談し、「両国共通の関心の対象である国際問題」および「両国の安全保障に関する現行の諸取極」について討議した。その結果同月二十一日「日米関係が共通の利益と信頼に基礎を置く新しい時代に入りつつあることを確認する」旨、および「暫定的なものとして作成された安保条約を両国の国民の必要および願望に適合するように調整することを考慮をする。」旨の共同コミユニケが発表された。ついで昭和三十三年九月十一日米国政府は、藤山外相とダレス国務長官との会談にもとづいて安保改定交渉を東京で始めることに同意し、同年十月四日には藤山外相とマッカーサー大使との間に安保改定に関する第一回会談が行われ、以後その交渉が続けられた。以上の動きに対し、社会党は、そのひようぼうする中立主義の立場から、安保改定は、日米の軍事同盟的性格を有し、米ソの対立の激しい国際情勢のもとでは、かえつて日本の平和と安全とを脅かすおそれがあるとして強く反対し、全日本学生自治会総連合(以下全学連という。)の指導者を中心とする活動家的な学生グループは、安保改定は、戦後徐々にその力を蓄え自信をとりもどしてきた日本の独占資本の要請にこたえて企てられたものであるが、独占資本は、安保を改定し、日米対等の立場を誇示することによつて、いよいよその独裁的な地歩を固め、内に向つては、労働者に対する搾取の強化、基本的人権の制限等を指向する反動的な施策を推進し、外に向つては、東南アジア等に対する帝国主義的な進出をはかろうとするものであるから、安保改定が日本の軍国主義化と戦争の危険の増大について決定的意義を有することは明らかであるとして、あくまでその実現を阻止すべきであるとする立場をとつた。ただ昭和三十三年には、治安対策の一環として警察官職務執行法(以下警職法という。)の改正が企てられ、同年十月九日にはその改正案が国会に提出された関係もあつて、この採否に関する論議が一般の関心を集め、革新団体等の政治活動も警職法反対に集中されざるをえなかつたため、いまだ安保改定に対する反対運動は前面に出るに至らなかつた。しかし、同年十一月二十二日警職法改正案が世論の批判を受け審議未了となるや、これに力をえて安保改定に対する反対運動も漸く活溌となり、翌昭和三十四年三月二十八日には社会党、総評、中立労連、青年学生共闘会議等十三団体を幹事団体、共産党をオブザーバーとする安保改定阻止国民会議(以下国民会議という。)が結成されその主催のもとに同年八月上旬安保改定阻止第一次統一行動(以下統一行動という。)が組まれたのを手初めに、以後昭和三十五年六月頃までの間に二十数次にわたる統一行動が展開されることになつた。この統一行動は、各幹事団体の呼びかけに応じて集つた労働者、学生を主体とする大衆の集会、示威運動等の形をとつたが、国会において安保改定交渉の経過、改定案の内容等について詳細な質疑が行われ、これに関する論議がジヤーナリズムをにぎわし、国民の理解と関心とが深まるのにつれて次第にその規模を拡大していつた。全学連は、右青年学生共斗会議の一構成員として統一行動に参加していたが、将来に対する強い危機感を背景に、学生活動家に特有の反権力的傾向、先駆者的自負、直情的行動性等から国民会議の比較的穏健な行動方針をあきたりなく思い、漸次それを上まわり、あるいは逸脱する行動に出るようになつた。

二、一一・二七事件

(事件に至るまでの経過)

国民会議は、安保改定阻止第八次統一行動として、第三十三臨時国会会期中の衆参両院に対し「安保改定反対、交渉即時打切り要求」の大請願デモを行うこととし、昭和三十四年十一月二十七日午後二時チヤペルセンター前(国会正門前の旧チヤペルセンター前をいう。以下同じ。)、人事院前、特許庁前(グランドホテル前)各道路上に八万の大衆を動員する計画を立てた。これに呼応して、全学連およびその下部組織である東京都学生自治会連合(以下都学連という。)は、「一一、二七ゼネスト、国会包囲デモ」等の激越な言葉を用いた文書で学生等にデモ参加を呼びかけ、前記三方面に学生を動員する計画を立てた。警視庁は、事前に衆参両院から各警務部を通じ、多数人が反覆的連鎖的に行う請願はたとえ個々人でするものであつても平穏な請願とはみなされないから集団陳情として取扱う旨の情報をえたうえ、チヤペルセンター前、特許庁前、人事院前各道路上に計五千数百名に及ぶ警察官部隊(以下警官隊という。)を配置し、輸送車、広報車を利用してデモ隊が国会に近づくのを、昭和二十五年都条例第四十四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下公安条例という。)によつて、無許可集団行進、集団示威遊動として阻止する(ただし、各方面について三十名位づつの代表者の通行は阻止しない。)方針を立てた。同年十一月二十七日ひる過ぎ頃から三方面には続々と人が集まり、最高時にはチヤペルセンター前約一万一千名、特許庁前約六千五百名、人事院前約一万四五千名に達した。警察側は、最初は警官隊(人垣)による阻止を試み、これが困難とみると車輛を道幅いつぱいに並べるいわゆる車輛阻止線を設けて請願団の進出を押さえ、その間広報車で、国会では集団による請願あるいは陳情は受付けられないから解散するように繰り返し放送した。請願行動に集つた大衆は、同日朝ベトナム賠償がいわゆる「暁の国会」で強行採決されたこと、特に特許庁前、人事院前では警察が国会議事堂から相当遠く離れた地点で強力な阻止態勢をしていることに憤激し、その気勢は警官隊との対峠のうちに次第に昂まつていつた。かようにしてチヤペルセンター前道路上においては、同日午後三時四十分頃国会議員に引卒された請願代表団約三十名が衆議院議長に面会するため尾崎記念館側歩道を通つて警察の車輛阻止線の後方にで、衆議院正門に向つたのと相前後して、チヤペルセンター側歩道上に位置していた学生の集団が警察官の部隊による阻止線を突破して国会正門前に押し寄せ、労組員等もこれにつづいた。特許庁前では同日午後三時三十分頃から四時頃までの間に学生、労組員等が警察の車輛阻止線を突破して衆議院通用門附近から南通用門附近に進出した。人事院前では、車輛による阻止線が張られるとやがて労組員の大部分は大蔵省方面に転進し、学生および一部の労組員が警官隊と対峙していたが、同日午後四時十五分頃警官隊が指揮官の命令で阻止線を解いて国会正門前附近に退いたあとを追つて正門前に進出した。

(罪となるべき事実)

第一、被告人清水丈夫は、東京大学経済学部学生で全学連書記長の職にあつたもの、被告人林絃義は、東京大学文学部学生で都学連執行委員の職にあつたもの、被告人吉田晟は法政大学経済学部学生で全学連中央執行委員の職にあつたもので、昭和三十四年十一月二十七日の第八次統一行動に際しチヤペルセンター前道路上の集団に参加したが、前記のような推移で東京都千代田区永田町二丁目十四番地所在国会議事堂正門前に押し寄せた約三百名位の学生、労組員等と互いに意を通じ、これらの者とほぼ一団となつて、同日午後四時六分頃、先頭部の者がむりやりにその扉を押しひらいた正門(中央門)口から、衆参両院議長が部分を分つて管理する国会議事堂構内に、管理者の意思に反して侵入し、

第二、被告人加藤昇は、早稲田大学政治経済学部学生で全学連副中央執行委員長の職にあつたもの、被告人服部信司は、東京大学経済学部学生で都学連執行委員の職にあつたもの、被告人宮脇則夫は、早稲田大学第二文学部学生で都学連執行委員の職にあつたもので、昭和三十四年十一月二十七日の第八次統一行動に際し特許庁前の集団に参加したが、約二百名位の学生と互いに意を通じ、これらの者とともに、同日午後四時二十五分頃、衆議院南通用門と正門との間の南通用門寄りの外柵を乗り越えて前記国会議事堂構内に管理者の意思に反して侵入し、

第三、被告人永見堯嗣は、早稲田大学第二文学部学生で都学連書記長の職にあつたもので、昭和三十四年十一月二十七日の第八次統一行動に際し人事院前の集団に参加したが、約千数百名の学生と互いに意を通じ、これらの者とともに、同日午後四時三十分頃から午後四時五十分頃までの間に国会議事堂正門から前記国会議事堂構内に管理者の意思に反して侵入し、

第四、被告人糠谷秀剛は、東京大学法学部学生で全学連副中央執行委員長兼都学運執行委員長の職にあつたもので、昭和三十四年十一月二十七日の第八次統一動に際し特許庁前の集団に参加した行が、同日午後四時二十五分頃から午後四時五十分頃までの間に、衆議院の通用門から南通用門をへて国会正門に至る間の外柵を乗り越え、または右正門から前記国会議事堂構内に、管理者の意思に反して侵入し、

第五、被告人葉山岳夫は、東京大学法学部学生で同大学法学部緑会委員長の職にあつたもので、昭和三十四年十一月二十七日の第八次統一行動に際し特許庁前の集団に参加したが、同日午後四時二十五分頃から午後四時五十分頃までの間に衆議院の通用門から南通用門をへて国会正門に至る間の外柵を乗り越え、または右正門から前記国会議事堂構内に、管理者の意思に反して侵入した。

三、羽田事件

(事件に至るまでの経過)

すでに昭和三十四年十一月中旬頃から新聞等によつて、新安保条約の調印は翌昭和三十五年一月中旬頃ワシントンで行われる模様である旨の観測が報じられていたが、昭和三十四年十二月二十九日には、総理大臣岸信介以下全権団の構成が、同月三十日には、昭和三十五年一月十九日ワシントンで調印を行なう旨が、政府から正式に発表され、同時に全権団が同月十六日東京国際空港(いわゆる羽田空港)を出発すること等、その日程も報道された。これに対し、条約改定に反対する諸政党、諸団体は、調印という公的な国際的な行事のもつ政治的効果を重視し、反対運動の重要な一環として、調印に抗議し、これを阻止するための強力な統一運動を組織する態勢をつとた。その具体的方策としては、最初は全権団出発の際大規模な「羽田抗議デモ」を行うべきであるとの意見が強く、昭和三十四年十二月下旬頃行なわれた国民会議の諸会議でもその旨決定されたが、やがて同会議内の有力団体からデモの際の秩序保持に不安があるとして、都心における抗議のための集会および集団示威運動が提唱され、この意見が次第に大勢を占めるにいたつた。

全学連は、昭和三十四年十二月中旬頃行われた中央委員会の決定にもとづき、その頃からさん下の各自治会に対し、全権団渡米の際には、泊り込みによる強力な羽田デモを組織し、実力に訴えても渡米を阻止するとの方針を示し、他の諸団体が羽田デモの中止にかたむいた翌三十五年一月初旬頃にもなお、羽田デモ等の必要性を強調して、可能なかぎりの大量動員を要請し、たとえ全学連単独でも、あくまで右の方針を貫くという態度を堅持した。共産同および社学同も、同様の態度をとつた。この呼びかけに応じ、全国諸大学の自治会等において会議、討論が行なわれた結果、あるものは自治会として右の行動に参加し、(地方の大学自治会は代表を送る。)あるものは自治会の決定を経ず、有志が集つてこれに参加することになつた。

このような状況のもとで、昭和三十五年一月十五日正午頃全権団が翌十六日朝東京国際空港から米国へ向け出発する旨発表報道されるや、十五日午後六時すぎ頃から多数の学生および若干の労働者(以下学生等という。)が、続々、東京都大田区羽田穴守町五百七十四番地東京国際空港ターミナルビル二階の国際線ウエイテイングロビー(国際線航空機の乗降客およびその関係者の待合、歓送迎等のために一般に公開された広間。以下ロビーという。)に参集し、同日午後十時三十分頃にはその数約三百名に達した。その頃から同ロビーにおいて被告人林道義(当時東京大学法学部学生、全学連中央執行委員。以下被告人等の地位は、いずれも当時のものを示す。)の司会で集会が開かれ、多数の学生等が入れかわり立ちかわり挨拶、演説を行い、それぞれ全権団出発阻止の必要性、正当性を強調し、この情況は翌十六日午前零時四、五十分頃までつづいたが、最後に演説に立つた全学連中央執行委員長の被告人唐牛健太郎(北海道大学学生)は、滑走路に坐り込んででも断固全権団の出発を阻止すべき旨を述べ、ロビーには多数の私服警官がいるからここで具体的戦術を提議することはできないが、今後指揮者の指揮に従つて行動してほしいと要請した。その間十五日午後十一時三十分頃被告人西部邁(東京大学教養学部学生、同学部自治会委員長、都学連副委員長)の卒いる東大教養学部等の学生三百名位が、空港入口に配置された警官隊の制止を排してロビーに到着し、学生等の気勢はますます昂まつた。これに対し、ロビーの所有者である日本空港ビルデング株式会社(以下ビル会社という。)および航空法、空港管理規則によりロビーについて管理権をもつ東京航空保安事務所の職員は、協議のうえ、同日午後十時五十分頃から翌十六日午前一時頃までの間数回にわたり、ロビー備付けの拡声機を通じ、ロビーからの退去を要請したが、学生等は、全然これに応じようとしなかつた。同空港の警備にあたつた警察首脳は、種々対策を協議し、航空保安事務所およびビル会社の意向も確かめたうえ、学生等があくまで管理者の要求を無視し、ロビーから退去しない場合には、空港内の秩序を維持し、学生等による全権団出発阻止の危険を除去するため、所要の警察官がそろい次第、学生等を強制的に空港外に排除することに決め、とりあえず十六日午前一時頃学生等が滑走路等に出ないよう警戒するため、一部の警官隊をターミナルビル内のロビーに通ずる各通路等に配置した。

学生等は、十六日午前零時四五十分頃集会を終り、ロビーの床に坐り寝そべるなどして待機していたが、同日午前一時少しすぎ頃一部学生等により「警官が来た」との報知がもたらされたため、にわかに緊張し、一斉に立ち上り、指揮者等の指示に従つて、隊列を整え、一部の学生等は、警察官の立入りを阻止するため、ロビー南側の階段、渡廊下の附近にロビー備付けの椅子(合計八十八脚位)等を積み重ねてバリケードを築き、やがてその前方に現れた警察官と対峙し、一部の学生等は、ロビー東側の職員通路および北東隅の旅客到着口附近において、折から近くに姿を見せた警察官に対し、スクラムを組み、シユプレヒコールを行うなどして対立し、残りの学生等は、ロビー中央辺でスクラムを組み、気勢を挙げ、間もなく五、六列位の縦隊をつくつて駈け足で行進する態勢に入つた。

被告人青木昌彦(東京大学経済学部学生、全学連中央執行委員)、同生田浩二(東京大学大学院学生)、同江南義之(東京大学法学部学生)、同奥田正一(早稲田大学第二文学部学生、同学部自治会委員長代理)、同鬼塚雄丞(東京大学経沢学部学生、同大学自治会中央委員会議長)、同大島芳夫(日本大学経済学部卒業無職)、同唐牛健太郎、同片山廸夫(早稲田大学第一文学部卒業共産主義者同盟員)、同倉石庸(東京大学大学院学生)、同古賀康正(東京大学農学部卒業、共産主義者同盟員)、同佐藤就之(日本大学中退、組合職員)、同篠原浩一郎(九州大学経済学部学生、全学連中央執行委員)、同下山保(早稲田大学第二文学部学生、同学部自治会書記長)、同鈴木啓一(東京大学文学部卒業、共産主義者同盟員)、同鈴木英夫(東京学芸大学学生、全学連中央執行委員)、同立川美彦(東京大学法学部学生、都学連執行委員)、同西部邁、同早川繁雄(明治大学文学部学生、同学部自治会副委員長)、同林道義、同平井吉夫(早稲田大学第一文学部学生)、同藤原慶久(中央大学第一文学部学生)、同星野中(東京大学経済学部学生)は、いずれも右学生等の中にあつて、ともに行動していた。

(罪となるべき事実)

以上のような状況のもとで、ロビー中央辺にいた学生等の集団が行進を開始する直前頃その集団の中に一部の学生等に聞こえる程度の声で(行進の先頭に立つた学生等はこれを聞き取つた。)食堂に入るよう指示または示唆する者があつたため、行進をはじめた学生等の縦隊の先頭は、同日午前一時十五分頃、ロビーの西側にガラス壁、コンクリート壁および巾約1.5米、高さ約2.1米の合成樹脂製の扉によつて区画されて隣接する日本空港食堂株式会社(代表者代表取締役社長吉本与志雄)の経営にかかる食堂(第一コーヒーシヨツプをいう。奥に第二コーヒーシヨツプがつづいている。)の、すでに営業を終つて施錠されている前記扉に向つて殺到した。そして先頭附近にいた学生等数十名は、警官隊による強制排除に抵抗するため、他の学生等も直ぐあとにつづくであろうことを予期しつつ、これらの者とともに食堂内に立てこもる考えで、同社の従業員六、七名が内側から必死になつて押さえている扉を共同して押し、突くなどし、むりやりにこれを開いて食堂内に侵入し、その後に隊列を組んでいた学生等も、つぎつぎに同様の意思をもつて侵入していつた。前記被告人等は、右隊列の中等にあつて、先頭部の学生等が食堂の扉へ向つて殺到し、あるいはこれを押し、突くなどする状況をみ、もしくは前方の学生等が押し開れかた扉から続々食堂内に侵入する状況を目撃し、または隊列外で警官と対峙などしているところを、食堂に入るよう呼びかけられて、右学生等の意思を察知し、ロビーに残つている他の学生等も直ぐあとにつづくであろうことを予期しつつ、食堂に立ち入ろうと考え、このようにしてロビーにいた学生等全員約六百名と順次意を通じ、これらの者と共同し、多数の勢威によつて食堂従業員等の制止を困難にし、あるいはそれが困難にされていたのに乗じて、前記扉の押し開かれた食堂入口から、相前後して続々その内部に侵入した。その後同被告人等は、食堂に侵入した他の学生等約六百名と互いに意を通じ、食堂支配人杉井要太郎等から食堂備付けの拡声機を通じ退去を要請されたにもかかわらず、同日午前三時頃から午前四時三十分頃までの間に警官隊により強制排除されるにいたるまで、食堂から立ち去らず、その間多数の勢威によつて大門博明、円城寺清、井上偉夫、吉良英等食堂従業員の制止を排し、午前六時三十分ないし七時頃からの定時開業および深夜不時に到着する航空機の乗客を接待するための臨時開業に備え、いつでもすみやかに営業ををはじめられるよう食堂内に配備されていた客用のテーブル、椅子その他の備品をほしいままにとりはらい、これを食堂の出入口等に積み重ねて外部との通行を遮断したうえ、全員が食堂内に坐り込んでこれを占拠しつづけ、また大門博明、成島紀男、鶴田正夫等食堂従業員の出入を一時制止するなどし、もつて威力を用いて日本空港食堂株式会社および同社従業員大門博明等の業務を妨害した。

四、四・二六事件

(事件に至るまでの経過)

新安保条約は昭和三十五年一月十九日ワシントンにおいて調印され国会の承認を求めるため第三十四通常国会に提出され、衆議院安保等特別委員会は同年二月十九日条約の審議を開始した。ところで、国会の会期は同年五月二十六日までとなつていたので、参議院の議決を経ないで一ケ月経過した場合のいわゆる自然成立を期するためには、会期の延長がないかぎり、衆議院において同年四月二十六日までに議決をすることが必要であつた。安保改定反対運動は、この四月二十六日という時点を重視し、国民会議も同日の第十五次統一行動を組み、東京都公安委員会の許可を得たうえで日比谷公園に集まり、旗やプラカードを置いて二十人、三十人づつの集団となつて衆議院議員面会所附近に赴き請願書を出して日比谷公園に戻り、旗、プラカードを持つて集団示威運動を行うことを計画し、いわゆる全学連反主流派の学生もこの国民会議の統一行動に参加し清水谷公園に集まつて参議院議員面会所附近で請願書を提出することになつていた。全学連主流派は、国民会議とは別個に自らの斗争方針を立て、学生等に対し、当日はチヤペルセンター前道路上に集つたうえ、一一、二七闘争を上廻る国会包囲請願デモを敢行する旨を呼びかけ、日本社会主義学生同盟(以下社学同という。)および当時全学連を指導する立場にあつた共産主義者同盟(以下共産同という。)も、全学連主流派に同調して強烈な国会包囲デモの呼びかけを行なつていたが、公安条例にもとづく許可申請などはしなかつた。折から韓国で李承晩政権に対する学生等のデモが各地におこり同年四月十九日にはソウルで学生を中心とする暴動が勃発したことが、右の全学連等の志気を昂揚し、さらに同月二十三日自民党が衆院安保等特別委員会の中間報告を求める動議を提出したことは、全学連等をして政府、自民党は四月二十六日までに衆院での採決を強行するのではないかとの切羽詰つた気持にさせた。警視庁は、全学連等が一一、二七闘争を上廻る国会デモを計画しているという情報にもとづき、多数の警察官、車輛を配置してこれを無許可のデモ、集会として厳重に取締る方針をとることとなつた。四月二十六日当日午前十一時五十分頃江南義之の引率する東大生約二百名がチヤペルセンター側歩道上に現われ、警官隊に国会正門方向へ進むのを阻止されていたが、段々人数がふえ午後零時三十分頃には四、五百名位になつた。やがて、午後零時四十分頃おほりばたの都電「議事堂前停留所」附近から、被告人唐牛健太郎に引率された東大生約百名がチヤペルセンター前車道を国会正門に向つて駈け上つてきた。これをみて歩道上にいた前記学生等も車道に出てその一隊に合流し始めたので附近にいた警官隊は、学生等の進路に立ちふさがりこれを押しとどめていたが、この情勢をみて警官隊だけの力では学生等の前進を阻止することが困難であると判断した警官隊の指揮者は、車輛による阻止線を設けることとし、チヤペルセンター国会寄り出入口から約三十米おほりばたに寄つた附近の道路いつぱいに、前部をおほりばたに向けた広報車九台、輸送車二台を並べて第一次車輛阻止線を設定し、その後間もなくその後方国会寄りに約三米の間隔をおいて輸送車十一台による第二次車輛阻止線を、ついで午後四時頃更に事態の緊迫化に応じてその後方にほぼ同様の間隔をおいて、借り上げ大型貨物自動車による第三次車輛阻止線を設定し、警官隊は各阻止線の後方に退いた。第一次車輛阻止線が設定される頃から、学生等は右車輛阻止線の前(おほりばた寄り)に坐りこみ始めたが、漸次その数を増し、午後二時五十分頃には、早稲田大学の学生約千名が小型トラツクを先頭に到着し、学生等の数は約五千名に達した。右のような状況の間に午後一時三十分頃被告人篠原浩一郎が第一次車輛阻止線のB型広報車の上にのぼり、被告人唐牛に身体を支えられながら演説を始め、続いて各大学学生の挨拶が行われた。午後二時頃被告人篠原、同藤原慶久の指示で隊列の変更が行われ、被告人藤原は、「今後の行動について打合わせをする、都自代(東京都学生自治会代表者会議)、関東自代(関東学生自治会代表者会議)を開くから各大学の代表一名づゝが集まるように」指示し、これにもとづいて第一次車輛阻止線の前(学生集団との間)で被告人唐牛、同篠原を中心に円陣を作つて代表者会議が午後二時四十分頃まで行われた。右代表者会議が終ると間もなく、前記B型広報車を演壇とし、次いで午後三時十分頃から前記早稲田大学の小型トラツクを演壇として安保改定を阻止するため国会正門に向つて進むべきことを強調する集会が行われた。

(罪となるべき事実)

第一、被告人唐牛健太郎は、北海道大学学生で全学連中央執行委員長の職にあつたもの、被告人篠原浩一郎は、九州大学経済学部学生で社学同執行委員長兼全学連中央執行委員の職にあつたもの、被告人志水速雄は東京外国語大学ロシヤ語科学生で全学連中央執行委員の職にあつたもの、被告人陶山健一は東京大学農学部卒業し農林技官として農林省に勤め、共産同政治局員の職にあつたもの、被告人糠谷秀剛は東京大学法学部学生で全学連副中央執行委員長兼都学連執行委員長の職にあつたもの、被告人藤原慶久は、中央大学文学部学生で社学同書記長の職にあつたものであるが、右のように、昭和三十五年四月二十六日午後二時四十分頃(都自代、関東自代が開かれた前後頃)から同日午後四時までの間東京都千代田区霞ケ関一丁目二番地のチヤペルセンター前道路上において学生等約五千名が東京都公委委員会の許可を受けないで安保改定阻止のための集会を行つた際、共謀のうえ、隊列の変更を指示し(藤原、篠原)、司会をし(糠谷、志水)、あるいは演説(篠原、陶山、唐牛)をする等して右集会を指導し、

第二、右集会の終る午後四時頃被告人志水は、第一次阻止線の広報車の上に立つて参加学生等を起立させ、音頭をとつて「警官は帰れ」、「装甲車を乗りこえるぞ」、「国会正門前へ行こう」等のシユプレヒエールを行わせ、次いで被告人唐牛は「諸君一歩一歩前に進もうではないか」との呼びかけを行い、こゝに被告人唐牛、同陶山、同篠原、志水速雄は、参加学生等の多数のものと互いに意を通じこれと共謀のうえ、車輛阻止線を乗り越え警官隊による制止を排除して国会正門へ向つて進もうと企て、午後四時十五分頃から右学生等とともに一せいに行動をおこし、無許可集団示威運動を阻止すべき任務を帯びて前記第一、第二、第三次車輛阻止線の間およびその後方に配置されていた第一機動隊第一中隊長戸田昇警部の指揮する同中隊員六十六名ほか、第一、第二、第三、第五各機動隊員千二百余名に対し、車輛の上からその身辺に跳び降り、突き当り、押す等の暴行を加え、もつて機動隊員の前記職務の執行を妨害したものである。

(証拠の標目)《省略》

(被告人および弁護人の主張に対する判断―一般)

一、つぎに本件各事件ごとに、弁護人の主張を中心に、事実上および法律上の問題点について裁判所の見解を示してゆくこととするが、その前にここで、(1)問題点を取り扱う裁判所の基本的態度を明らかにし、(2)各事件に共通な問題を論じておきたい。

二、右の基本的態度について特に一言する必要があると考えた理由は、(1)弁護人から種々の理論的問題が提起され、微にいり細をきわめた分析、検討が行われているが、これらの問題の中には、純理論的観点からは格別、事件を判断評価するうえでは、それほど意味があると思えないものがあること、またすでに最高裁の判例でその判断の示されているものがあること、および被告人等の主張の中には、裁判所の機能に対する理解が十分でないことにもとづくものがあると思われることである。

三、裁判所は、具体的な事件を、審級制度を背景に、法的委定性をも顧慮しつつ裁判するところなので、理論的問題も、あくまで事件との関連において事実に即して判断する必要があるとともに、できるかぎり、判例、特に最高裁判所(以下最高裁という。)の判例を尊重する義務があると考える。かような観点に立つ当然の結果として、問題の理論的解明については、弁護人の期待に十分こたえなかつた点もあると思われる。

四、被告人等は、最終陳述で、ほとんど異口同音に、「われわれは、安保改定を阻止することが正しいことであると確信し、安保改定を推進しようとする政府と政治的に真正面から対決したのである。われわれは、この政治的信念および行動が誤つているということで裁かれるのであるならば幾らでも争う自信がある。しかし、われわれは、建造物侵入とか威力業務妨害とか、公務執行妨害とかいう意外な罪名で起訴された。これは、政府が全学連という最も強力な反対勢力を倒すために、その権力を濫用した陰謀であるとしか思われない。われわれは、この裁判によつて何ら裁かれているものでないような気がする。」との旨述べている。しかし、思想、言論の自由が認められている憲法のもとでは、政治的思想や信念自体の是非を裁くことが許されない反面、どういう政治的思想や信念の持ち主であろうとも、その行為が法にふれる場合には、法に照して責任を問われなければならない。これらのけじめがはつきりつけられることによつて、初めて思想、言論の自由も、これらを基本とする民主主義も守られるといえるのである。裁判所が、被告人等に起訴されたような行為があつたかなかつたか、それが法に照らして罪になるかどうか(違法阻却、責任阻却の事由の有無をふくむ。)に審理の重点をおいたのは、このためである。いわゆる政治的事件においては、万一にも政治権力が反対勢力を倒すために濫用されることがないように、特に右の配慮が必要であると考える。この点は、被告人等の裁判所に期待するところと若干異なると思われるが、やむをえない。

五、本件各事件の弁護人は、安保改定(したがつて新安保条約)が明らかに憲法に反することを種々の論拠をあげて強調し、これを抵抗権、正当行為その他の違法性阻却あるいは責任阻却の主張の根拠にしている。被告人等の多くのものも、「安保改定は明らかに憲法に違反する。したがつて安保改定阻止のために戦つたわれわれの行為は、国民としての義務を尽したものであると思つている。」と述べている。

終戦後二度と戦争などすまいという固い決意にもえて戦禍の中から立ちあがつた国民にとつて、平和主義を高くかかげた憲法が深い感銘をもつて迎えられたこと、ところがその後、国際情勢の変化にもとづくとはいえ、警察予備隊が発足しこれが保安隊をへて自衛隊に発展するまでの間に、この事態の変化に呼応し、憲法制定当時広く行われていたように同法第九条を解釈することが困難になり、これに関する政府の国会答弁もつぎつぎに変わらざるをえなかつたこと、またこの間同条をめぐる論議がジヤーナリズムをにぎわし、多くの学者によつて自衛隊等の違憲論がとなえられたことは、今なおわれらの記憶に新たなところである。このような背景のもとに判示のような経過で安保改定が企てられたため、これをめぐつて国論は大きく二分し、識者の中にも、反対するもの、安保違憲論をとなえるものがすくなくなかつた。弁護人や被告人等が前記のような主張をするのにも、ある程度無理からぬものがある。

法理的にみても、右改定の結果成立した新安保条約、特にその第三条、第五条および第六条の規定の体裁、内容については、憲法制定の経緯にかんがみ、また憲法前文のうちに観取される高度の平和主義および国際協調主義並びにこれらを背景とする同法第九条の戦争放棄、戦力不保持の原則の宣明に照らして考えると、かなり論議の余地があると思われる。今なお学者の間に違憲論があとを絶たないのも、決して偶然とはいえない。いわんや、政治的観点からみると、同条約の利害得失については、一層論議の余地が大きいであろう。すなわち、同条約に対する評価は、それが現実の国際社会において現実にどのような意味をもち、どのような機能を果すか、という点の理解が異なるにつれて異なるであろうし、その理解はまた、各人の国際情勢に対する見方、考え方によつて大きく左右されるであろう。しかし、いわゆる砂川事件について下された最高裁の判例(昭和三十四年十二月十六日大法廷判決)によると、憲法の解釈として、第九条は、わが国が主権国としてもつ固有の自衛権を否定し、無防備、無抵抗をきめたものではなく、わが国がその平和と安全とを維持するために必要な自衛措置を構ずることまで禁ずる趣旨でないこと、したがつて、その目的を達成するのにふさわしい方式または手段である限り、他国に安全保障を求めることも許されること、また同条第二項がその保持を禁止している戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使しうる戦力を指し、外国の軍隊は、たといわが国に駐留していても、ここにいう戦力にあたらないこと等が明らかにされた。この見解の是非についても、なお識者の意見はわかれているが、最高裁大法廷が全員一致で示した右の見解は、そこに示されている限度において憲法第九条の問題についての最終的な公権的判断として、なにびともこれを尊重しなければならない。(この見解は、旧安保条約に対する判断において示されたものであるが、新安保条約に関しても、そのまま妥当すると思われる。)この最高裁の見解に、新安保条約が国際連合憲章(以下国連憲章という。)の目的と原則とを尊重し、これらに準拠してつくられていること(国連憲章が国際的粉争を「平和的手段により、かつ、正義と国際法との原則に従つて」解決することを期していることは、いうまでもない。同憲章第一条参照。)各締約国が国連憲章の定める義務を遵守することを予定し、同条約が国連憲章に違反する法的効果を有しないこと(同条約第七条、国連憲章第百三条参照。)同条約第三条については、日本国の「武力攻撃に抵抗する能力」を維持し発展させる義務が、日本国憲法に違反しない限度にかぎられていること、同条約第五条については、その「武力攻撃に対する措置」が、「日本国の施政のもとにある領域における締結国の一方に対する武力攻撃」に対し、「自国の憲法上の規定および手続に従つて」行われるべきものと定められていること、しかも第二項で右の措置を直ちに国連安全保障理事会に報告しなければならないものとされていること(第六条については、前記最高裁の見解参照。)等の事情をあわせ考えると、同条約が争う余地のないほど明白に憲法に違反しているとはいえないと思われる。(最高裁の憲法第九条に関する見解のわく内でこの種の条約を締結するかどうかは、複雑多岐をきわめる国際情勢の分析検討を前提とする高度の政治的判断にまつべきものとして政治部門の裁量にゆだねられ、かつ、この裁量は、あくまでも平和主義、国際協調主義という憲法の基本原則にしたがつて行われるべきものと解されるが、新安保条約は、その規定の体裁内容等からみて、右の裁量権の限界を明らかに逸脱して締結されたとは認めがたいので、三権分立の建前上、同条約の内容についてこれ以上立ち入つた審査をすることはしない。前記最高裁の判例、特に島裁判官の補足意見参照。)要するに、法理的にみるかぎり、新安保条約は、憲法に違反すること明白であると断じなければならないほど、客観的合理性を欠くとはいえないのである。このような場合に、当該の条約が憲法に違反すること明白であるという絶対的な前提に立ち、かような前提に立たなければ許されないような、過激な行動に出るのは正当でない。本件各事件における違法性の有無は、政治的意見表明の自由とその限界という一般的な基準により、具体的諸状況に即して慎重に判断されなければならない。

(一一、二七事件の弁護人の主張に対する判断)

一、弁護人の主張の要旨

弁護人は、

(一) 被告人等のうち、加藤、服部、宮脇、永見、糠谷、葉山については、起訴状の訴因(昭和三十五年十月二十六日附訴因訂正申立書記載のとおり訂正されたもの。)で明らかにされた時刻、場所、態様で国会構内に立ち入つたという証明はなく、右と異なる認定をするには、訴因の変更を要するが、検察官はこれをしないから、同被告人等を有罪とすることは許されない。(二)(1)被告人等が多数の者と侵入直前に現場附近で共謀したという証拠はない。自分より先に国会に入る者の姿をみ、それにつづいて入つたとしても、後から入つた者と先に入つた者との間に当然に意思の連絡があつたとはいえない。従つて共謀の成立する余地はない。(2)被告人等は、請願権を行使するためには国会に立ち入ることができると信じていたし、かつ右のように信じていたことは、請願ないし陳情の取扱いに関する、国会の規程等が全く内部的なもので国民に周知させられていなかつたこと、終戦後最近まで議員面会所が構内にあり、請願者等が自由に構内に立ち入れたこと等からみて、社会通念に照らし相当の理由がある。したがつて、被告人等には、建造物侵入の故意がない。特に永見、糠谷、葉山については、国会正門が開放状態になつたのち、そこから構内に立ち入つた可能性があり、この場合には管理権者の意思に反して立ち入るという認識がなかつたとみるべきであるから、この意味でも、建造物侵入の故意を欠く。(三)刑法第百三十条にいわみる建造物とは、その文理から明らかなように、建造物そのものを指し、囲繞地をふくまないと解するのが相当である。かりに同条の建造物という概念に普通その囲繞地がふくまれると解されるとしても、国会が民主的憲法のもとでもつ高度の公共的性格、すなわち、そこが国民の代表者の集つて国政を審議する場所であること、その審議にはできるだけ国民の意思を反映し、その審議状況はできるだけ広く国民に知らせる必要があること等の性格にかんがみると、その保護法益である建造物の平穏性安全性も、旧憲法当時のように窮屈に解すべきでなく、またこれを判断するについては、管理権者である両院議長の意思だけでなく、両院議員全部の意思も参酌すべきである。以上の観点から、少なくとも国会議事堂構内は、主権者である国民が比較的自由に出入りできる場所として、刑法第百三十条の建造物にふくまれないと解するのが正当である。(四)(1)国民会議の第八次統一行動は、国会の周辺に近づいて請願を行おうとするもので憲法に保障された請願権行使の一態様として正当なものであつた。請願権は、言論の自由が確立されるとともにその重要性を失つたといわれるが、社会が複雑化しその動きが活溌になつた今日、請願制度は、新たな脚光をあび、大衆集会、集団行動等と相まつて、議会と国民の意思を密着させるうえで大きな働きをするようになつた。請願制度のこの現代的意義に着目して考えると、憲法第十六条の請願は、請願法、国会法等に定める、個別的な文書による方式に則つて行われるものに限られないと解するのが相当である。すなわち、憲法上の請願権の行使は、多数人の集団が何名かの代表者を関係機関の者に面接させ、その意思を伝え、かつ、全員の請願書を手渡させるとか、個々人が関係機関の者に直接口頭で各自の意思を伝えるとかいう方法でも行われうるのであつて、これらの場合には、相手方は、何らかの方法で誠実にこれを受理する憲法上の義務を負うと解すべきである。なお請願が集団的に行われる場合にある程度示威的効果を伴うのは当然であるから、示威的効果という理由で平穏性を欠くというのは、相当でない。要するに、現憲法のもとにおける請願権は、主権者である国民の、法律によつても制限することのできない基本的権利として、旧憲法下の臣民の法律等によつて自由に制限されうる哀願的請願とは全くその本質を異にするのであるから、その行使の態様、平穏性等についても、新たな解釈を下すべきである。(2)警察は、国会当局と連絡のうえ、請願者の集団が国会周辺に近づくのを阻止する措置をとつたが、右措置の根拠となつた昭和二十五年東京都条例第四四号集会、集団行進および集団示威運動に関する条例(以下公安条例という。)は違憲である。公安条例を合憲とする最高裁の判決は、現憲法のもとにおける表現の自由の重要性、特に大衆行動の意義を理解せず、同条例による取締の実態を洞察せず、論理を無視して独断的解釈を下したもので明らかに誤つている。憲法上の請願権の行使がかような条例によつて制限されることは許されない。かりにそうでないとしても、警察の当日の規制措置は、公安条例、警察官職務執行法に定める規制措置としての限界をこえる違法なものであつた。(3)警察の違法な措置に抗議し請願権を行使するため国会構内に立ち入ることは、自力救済的な意味をもつものといえる。この事実に、改定安保条約の予想される内容が違憲のものであること、その調印が翌年の一月に迫つていたこと等の事実をあわせて考えると、被告人等の行為は正当なもので違法性を欠いていた旨主張している。

二、弁護人の主張に対する判断

(一) 訴因で明らかにされた時刻、場所、態様で国会に立ち入つた証明がないという主張について。

(1) たしかに加藤、服部、宮脇の三名については、衆議院南通用門と国会正門との間の南通用門寄りの外柵を乗り越えたことを証明する直接の証拠はない。(ただし宮脇については、同人の検察官に対する自白調書がある。)しかし、証人狩俣恵長(第十五回公判)中川重行、川合良展(第十六回公判)の各供述、河辺俊昭に対する証人尋問調書、写真503等を総合すると、午後四時十分通用門前路上で各大学ごとに隊列を整えた学生のデモ隊が南通用門の方向へ進んでいたこと、当時通用門から南通用門を経て正門に至る道路上は労組員等のデモ隊でひどく混雑しており、学生のデモ隊はその混雑の中を思うように動けない状態で移動していたこと、午後四時二十五分頃南通用門と正門との間で南通用門寄りの衆議院供待所附近の土手の上で一人の男が「こゝから入れるぞ」と大きな声で叫び、それにつれて学生のデモ隊の先頭部分から学生らしいもの一、二名が土手をのぼり柵を乗り越える姿が確認されたこと、二、三分後に衆議院正玄関附近に学生四、五十人が並んでおり、その後方に一列になつて学生四、五十人が並んでおり、その後方に一列になつて学生十人位が先程土手で男が叫んでいた方向の木かげから続いて出てきたこと、右学生等は、約二百名位にふえると午後四時三十分頃デモ行進を開始したが、その隊列の先頭部分に加藤、服部、宮脇の三名がいたことが認められる。右のような状況に照らせば、宮脇の検察官に対する自白調書は信用性があり、又自白のない加藤、服部についても午後四時二十五分頃南通用門と国会正門との間の南通用門寄りの外柵を乗り越えて構内に立ち入つたと認められるのが相当である。

(2) 永見については、人事院前路上の警察官の阻止線が解かれる午後四時過頃まで阻止線の前に坐り込んでいた学生千五百名位の指揮をとつていたこと(第十四回公判における証人田島晴雄、飯野静実および永見の各供述参照)、午後四時五十七分頃国会構内の労組の宣伝カーの上にあがつていたこと(証拠略)認められるが、その間の永見の行動については直接の証拠はない。しかし、証人(中略)の各供述によると、人事院前路上の阻止線の前で坐り込んでいた学生、労組員等は阻止線が解かれたあと間もなく途中警察官によるさしたる抵抗をうけることもなく国会正門前に到着したこと、国会正門(中央門および参議院正門)は、午後四時三十分頃さきに構内に立ち入つていた学生のデモ隊によつて内側から開かれ、それに呼応して正門前にいた学生、労組員等がどつと構内になだれこんだこと(正門からの第二回目の立入りで、それ以後中央門は開放状態となり衛視等も出入を傍観していた。)、その際人事院前路上で永見の指揮下にあつた教育大学の学生の集団が中央門からの先頭部分として立ち入つたこと等が認められる。右のような状況、特に永見が人事院方面での学生の指揮者であつたこと、人事院方面から国会正門に至る道路上は特許庁方面から通用門を経て正門に至る道路が混雑してデモ隊の進行が思うようにならなかつたのと較べて円滑に進行できたこと等の状況に徴し、永見は午後四時三十分頃から午後四時五十分頃までの間に国会正門から構内に立ち入つたと認めるのが相当である。

(3) 糠谷、葉山については、証拠上、判示のように午後四時二十五分頃から午後四時五十分頃までの間に通用門から南通用門から南通用門を経て国会正門に至る間の外柵を乗り越えまたは国会正門から構内に立ち入つたと認定するほかはない。立入り場所さえ明らかに限定できない関係からみて、他の学生等と意を通じて一団となつて立ち入つたと(共同犯行)認めることも困難である。

(4) かようにして糠谷、葉山については、訴因として記載された南通用門附近の外柵を乗り越えての侵入と選択的に国会正門から侵入を認め、また共同犯行としての起訴を単独犯行として認定することになるが、右のような認定が一定の日時に国会議事堂構内に侵入したという公訴事実の同一性を害しないことはもとより、単独犯行は共同犯行の中に含まれるし、認定の時刻頃における正門からの立入りは審理の経過において立証の対象となつたものであり、正門からの立入りが建造物侵入罪の成立を妨げるような特段の事情も認められないから、単独犯行とし、かつ、選択的に正門からの侵入を認定することは、糠谷、葉山にとつて実質的に何等の不利益ももたらすものでないと解される。したがつて訴因の変更を要しないと解される。

(二) (1)共謀は成立しないという主張について。

清水、林、吉田および学生、労組員等三百名位、加藤、服部、宮脇および学生約二百名位、永見および学生千数百名位は、それぞれ、集団となつて警察の阻止組を突破してきたものであると認められること(事件に至るまでの経過欄参照)、構内に立ち入つた前後の事情からみて立入りの目的は集団示威を行うにあつたと認められること、立入りはほゞ一団となつて行われたと認められること(判示参照)のほか、清水等三名については国会正門に取りついた学生等が多数の者の力で五分間位中央門を押して、押し開けたこと(中略)、加藤等三名については前記(一)(1)の諸事情、特に立ち入り後直ちに隊列を組んでデモ行進を行つていること、永見については前記(一)、(2)、の状況、特に永見が人事院方面での学生の指揮者であつたこと、特許庁方面の学生のように途中混乱することもなく正門附近に到着したことが認められるのであつて、右のような諸事情に照らすと、被告人(等)と学生等との間には、前に構内に立ち入る者は後のものが自分等に続いて立ち入るであろうことを予期し、後から立ち入る者は前の者につづいて立ち入ることを認識し互いに一体となつて行動する気持があつたと認められるので、各人に侵入の実行々為があり、かつ、その間に互に暗黙の意思の連絡があつた場合として、侵入についての共同正犯が成立すると解するのが相当である。

(2) 被告人等に違法性の認識がなく、永見、糠谷、葉山は建造物侵入の犯意がないという主張について。

(イ) 国民会議の計画は、請願(又は陳情)行動であり、学生等の中にも請願書を用意していたものはあつたが、証拠として提出されたビラ類(全学連書記局通達一一、一六付、昭和三十五年証第一八九四号の一一、都学連通達一一、一七付、前同号の一六等)には請願権行使のためには構内に立ち入るという記載は全然なく、かえつて右ビラ類又は宮脇名義のノート(昭和三十六年押第一〇三三号の三五)には国会突入、国会乱入等の記載があつて、被告人等が請願行使のためには国会構内に立ち入ることが許されると信じていたと認めることは困難である。(また議員面会所が国会構内にあつたのは、衆議院が昭和三十三年六月頃まで、参議院が昭和三十四年一月頃までであつて、このことを理由に、被告人等が当時も構内への立入りが自由であると信じていたとは考えられない。)

(ロ) 永見、糠谷、葉山の犯意については、同人等が午後四時三十分頃国会正門から第二回目の立入りが始まつた後開放状態となり衛視等もその出入りを規制しえない状態となつた正門から立ち入つたものであるとしても、永見は、国会正門の閉じられていた状態およびその前にデモ隊が押し寄せていつた状態をみたであろうと認められること、糠谷、葉山については、通用門、南通用門が閉じられ衛視等によつて固められていた状態をみたであろうと認められること、被告人等は、学生運動の指導者として、国会周辺では集団行進についてさえ公安委員会の許可が得られなかつたことや国会構内への立入りは議院記章帯用者だけに限られていたこと等を知つていたと推認されること、前記のように警察が本日は国会では集団陳情をうけつけない旨の広報活動を行つていたこと、午後四時三十分以後の国会前庭は多数のデモ隊が旗プラカード等を持つて思い思いに行動しており、国会として異常なふんいきであつたこと等の状況に照らし、正門が開放状態にあつたとしても、被告人等が右デモ隊が国会当局の許諾のもとに構内に入つたものと思つたと認めることは困難であり、自らの立入りについても、国会の管理権者の意思に反するという認識があつたと認めるのが相当である。

(三) 国会構内は刑法第百三十条の建造物に該当しないという主張について。

(1) 建造物とは住居の用に供せられるもの以外の家屋をいい、その囲繞地をも包含することは、判例の認めるところである(最高裁昭和二四(れ)三四〇号、昭和二五・九・二七大法廷判決)。建造物の平穏性、安全性を保護する刑法第百三十条の趣旨に照らしても、少なくとも建造物の附属地として門塀等によつて外部との交通を制限し、守衛等をおいて外来者がみだりに出入することを禁止している場所は、刑法第百三十条にいわゆる建造物と一体をなすものとしてこれに包含されると解するのが相当である。国会議事堂が右の意味で建造物にあたることは疑いがなく、外柵、門等によつて外部と区劃され、各門には衛視、派出警察官等が配置され、議院記章帯用者以外の者は、原則として各門からの立入りが禁止されている国会構内が議事堂の附属地として刑法第百三十条にいう建造物の中に包含されることも明らかである。

(2) 国会議事堂およびその附属地(構内)は衆参両院議長が部分を分つて管理する。各議院は、国政を審議し、必要な立法を行う機関であり、衆参両院の議員が議事堂を利用するのは、右のような職責を行うためであつて、個人の生活のためではない。従つて、国会議事堂および構内の平穏性、安全性に対する考え方は、各議院について統一的であるべきものである。もとよりそれは、その院に属する議員の考え方――現実的具体的には相異る考え方があろう。――が尊重されるべきであるが、結局は各議院によつて選挙され、その意向を考慮して管理権を行う議長の考え方に集約されるのである。従つて、国会議事堂およびその構内の平穏性、安全性に対する考え方は、議長の意思によつて代表されるべきであるから、この意思に反して立ち入ることは、許されないと解する。

(3) 国民の意思を各議院の審議に反映させ、審議の状況を国民に知らせるのが望ましいことはいうまでもなく、そのためには一般公衆が自由に構内に出入できるようにすることも一つの方法である。しかし、国民の意思を議院の審議に反映させ審議の状況を国民に知らせる方法は、選挙、傍聴規則による傍聴、議員との議院外における面接等いろいろ考えられる。特に報道機関の発達した今日では、その審議状況は逐一報道されているのである。議事堂および構内の管理権者である議長が、審議の便宜、秩序保持等の観点から、各門から構内へ立ち入ることができるのは原則として記章帯用者に限ることとし、一般公衆がみだりに構内へ立ち入ることを禁止する取扱いをしたとしても、違憲、違法であるとはいえない。民主的憲法のもとでもつ、議院の高度の公共的性格も、必ずしも構内が刑法第百三十条の建造物に含まれることを否定する根拠にはならない。弁護人の引用する判例(大審院昭和七年(れ)第九八号、同年四・二一)は、板塀の囲のい中に多数の社宅の存する場合は、その構内は邸宅をもつて目すべきでないとしたものであつて、むしろ各社宅の居住権者の意思が問題となる場合であり、本件に適切でない。(なおこの点については、石垣、煉瓦塀の囲いの中に社宅約二十戸がある場合に、その区劃内は刑法第百三十条にいう人の看守する邸宅にあたることを認めた最高裁昭和三一(あ)第二六九六号、昭和三二・四・四参照。)

(四) 法律規則等で定められた手続以外の方法による請願も憲法上の請願として尊重されるべきであるという主張について。

(1) 憲法第十六条は、「何人も損害の救済、公務員の罷免、法律又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人もかかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」と規定し、右規定を受けて一般的手続的規程として請願法、衆参両議院に関する規定として国会法第七十九条から第八十二条まで、衆議院規則第百七十一条から第百八十条まで、参議院規則第百六十二条から第百七十二条までが存在し、各議院では右法規および先例に従つて請願事務を取り扱つている。すなわち、各議院に請願しようとする者は、議員の紹介により請願書を提出することを要し(国会法第七十九条)、請願書には、請願者の住所、氏名のほか、紹介議員の署名又は記名押印を必要とする(衆議院規則第百七十一条、第百七十三条、参議院規則第百六十二条、第二十七回公判における証人後藤英三郎、島正雄の各供述参照。)が、実際の取扱いとしては、請願書は、そのほとんどすべてが、各政党の事務局で取りまとめられたうえ、衆参両院各事務局の請願課に提出されることになつている。

(2) 憲法の前記規定からも明らかなように、請願とは、公共の機関、すなわち、国または地方公共団体の機関に対し、その職務に関する事項につき希望を陳述する行為であつて、その相手方は、これを受理し、その職務を執行するについて参考にしなければならないものと解される。一般に請願制度は、政治上の言論の自由が確立され、議会制度が敷備されるにつれて次第にその重要性を失つてきたといわれるが、弁護人は、前記のとおり、その現代的意義、すなわち、請願制度が近代の代議政治のもとで新たにになうべき役割について詳細な検討を加え、この観点から、憲法第十六条についても、独自の解釈を打ちたてようとしている。弁護人の主張には、傾聴すべき点がすくなくないが、事件との関係において特に問題となるのは、法律、規則に定める様式を具備した請願書の提出以外の希望陳述行為、たとえば、個々人が口頭によつてするもの、多数人の集団がその代表者によつてするもの等も、平穏性を失わないかぎり、憲法第十六条に定める請願としてその相手方はこれを受理しなければならないかという点である。

たしかに弁護人も主張するように、憲法の請願に関する規定については、旧憲法のもとにおけるそれと異なり、「別ニ定ムル所ノ規程ニ従ヒ」などという限定(旧憲法第三十条参照。)がなく、単に「平穏に」という要件が附されているにすぎないこと、請願の主体が「臣民」でなく、主権者たる「国民」であること(前条参照)、したがつて、右の「平穏に」という表現も、旧憲法の「相当ノ敬礼ヲ守リ」という字句とはおのづから異なる意味を有すること、法律や規則によつて不当にその内容が制限されることがあつてはならないこと等が認められる。しかし、憲法の請願に関する規定は、きわめて抽象的であつて、それを具体化する法律や規則の制定を予想していると思われること、むしろ憲法上の請願を真に実効あらしめるためには、法律や規則でその手続や効果を明定する必要があり、憲法自らそのことを望んでいると解されること、請願の相手方は、公共の機関であつて、これを構成するものは、全体の奉仕者であつて一部の奉仕者でないこと(法理的には、党派を異にする国会議員といえども、一部の国民の利益を代表すべきものでなく、国民全体の利益を代表すべきものと解される。憲法第十五条第二項、第四十三条第一項参照。)、したがつて、公共の機関を構成するものは、できるかぎり国民全体の利益になるように、その執務中の時間と精力とを公正に用いる義務を負うこと、以上の観点から、請願も、これを受理する公共の機関の事務にできるかぎり支障をきたさないように、また受理後の事務処理が能率的にされるように、明確な合理的な手続で行われる必要があること等の諸事情を十分考慮する必要がある。特に、請願が権利であり、相手方においてこれを受理すべき義務を負うことに思いをいたすと、この権利行使をあらかじめ定められた、劃一的な、明確な規準に則らせることは、社会が複雑化し、公共の機関の事務量が増大した今日一曾強く要請されるともいえるのであつて、国会の使命、国会議員の職務の特殊性等を考慮するとしても、ある程度やむをえないと思われる。(一部の議員は、心ない陳情にわずらわされて、その本来の職務がおろそかになつているとさえいわれている。)このように考えてくると、法律、規則によつて定められた手続に則つた請願こそ、まさに憲法の期待する平穏な請願にあたると解するのが相当である。すくなくとも、右の手続によらない希望の陳述は、公共の機関においてそれを受理し、または受理しようとしないからといつて、その行為を違憲、違法であるといえないと解される。(もちろん請願の要件を徒らに厳格にし、請願権の行使を著しく困難にするような法律、規則は違憲であると解すべきであるが、請願の手続を定めた現行の法律、規則は、いまだ違憲であるとは認められない。)なお請願自体が法律、規則に則つて行われる場合にも、請願書を提出する際の、あるいは提出するまでの過程における請願者の行為に、他の法令の規定にふれる点があるならば、その面で規制を受けることがあるのは、当然であるといわなければならない。したがつて、かりに弁護人主張のように、正規の手続による請願以外の希望陳述行為も、憲法にいわゆる請願にあたると解しても、右の結論にかわりはない。

(3) 公安条例については、これを合憲とする昭和三十五年七月二十日の最高裁の判例がある。この判例については、弁護人主張のとおり、識者の間に、これを疑問とする者が多いばかりでなく、最高裁自らが先に新潟県条例について示した違憲判断の基準(昭和二十九年一一月二四日大法廷判決)に照しても疑問をまぬかれない。しかし、最高裁大法廷がまさに本件で問題となつている東京都公安条例を違憲でないと判断した以上、そしてその後それと異なる判断をしなければならない新たな事情が発生したと認めらない以上、現行裁判制度のもとでは、関係者は、みなこの判例を尊重し、これに従わなければならない。当裁判所としても、最高裁が特に「条例の運用にあたる公安委員会が権限を濫用し、公共の安寧の保持を口実にして、平穏で秩序ある集団行動まで抑圧することのないよう極力戒心すべきである」と強調している点にかんがみ、公安委員会はもとより、実際上の事務にたずさわる警備当局等が万一にもその権限を濫用することのないよう期待しつつ、最高裁の判例に従い、同条例を違憲でないと判断する。

(4) そこで事件当日における警察の具体的阻止行為の適否について検討すると、証拠上つぎの諸事実が認められる。

(イ) 国民会議の計画は、参加人員八万名を予定し請願書用紙一万枚を印刷して配布し、各組織に対しては国民会議が流した請願書を参考にして請願書を作成して参加して欲しいという呼びかけを行ない、当日は午後三時から四時の間に全員が請願または陳情をするために一歩でも国会に近づく、警官隊によつて阻止されて全員が請願できない場合には、各方面ごとに三十名位の代表を選んで社会党議員の案内で院内に入つて議長等に請願をするということになつていた。(証拠略)

(ロ) 当日の国民会議の行動については、事前に、国民会議事務局の者と公安条例にもとずく許可申請を取り扱う警視庁警備課係員との間に話合がされたが、国民会議側は請願行動であるから警察はこれを阻止してトラブルを起こさないように要望し、警視庁側は請願は止めないが公安条例の集団行進、集団示威運動の形態を取れば阻止するということで物別れの形となり、右条例にもとづく許可申請はされなかつた。もつとも東京都公安委員会としては、本件当時頃まではメーデーの時を除いては国会週辺における集団行進の申請については許可を与えたことはなく、第八次統一行動についても、たとえ許可申請をしても許可されないことが明らかであつた。(証拠略)

(ハ) 当時学生の中には、国会突入を予測させるような動きが観取された。(都学連通達一一、一七付、昭和三十五年証第一八九四号の一六、全学連書記局通達一一、一六付、前同号の一一等参照)

(ニ) 警視庁としても、事前に各議院と連絡をとり、集団による請願は平穏な請願とはみなされないから集団陳情として取扱うとの情報をえたうえ、各方面ごとに三十名位の代表は阻止しないで国会に行かせる方針をとり、現実にもチヤペルセンター前、人事院前では代表団の通行が認められた。(判示参照)

(ホ) 警察は、最初警告広報を行ない、集団行進又は集団示威運動の形態が生ずると、まず警官隊(人垣)による阻止を行ないそれが困難となると車輛を使つた。(判示参照)

以上の諸点を考慮すると、警察の規制措置が警察官職務執行法、公安条例に定める規制措置の限度を越えて違法のものであつたということはできない。

(5) 右のように公安条例が合憲であり、警察の規制措置が違法なものでなかつたとすれば、被告人等の行為を正当行為と解する余地がないことは、いうまでもない。

(羽田事件の弁護人の主張に対する判断)

一、弁護人の主張の要旨

弁護人は、

(一)  学生等(本件被告人全員をふくむ。以下同じ。)の多くは、食堂に立ち入るにあたり、それをロビーと同一の者の管理に属する、同一建造物の同一区画内のより狭い場所であると思つていたので、そこに立ち入ることが違法であるとは考えていなかつた。したがつて、被告人等には、建造物侵入の犯意がない。

(二)  学生等が食堂に入つたとき、食堂の営業は、すでに終了していた。学生等は、食堂従業員に対して別に不穏な行動をとつていないし、従業員であるとわかれば、その出入を阻止してもいない。結局学生等は、営業していない食堂に入り、とどまつていただけであつて、警察官の実力行使がなかつたならば、食堂にはなんらの損害も与えなかつたであろうと思われる。威力業務妨害罪の成立するためには、妨害の危険が発生しただけでは足りず、業務妨害の具体的結果が生じたことを要すると解する。したがつて、被告人等の所為は、刑法第二百三十四条の業務妨害にあたらない。また学生等は、食堂の性格や、そこで業務が行なわれていることを知らず、朝になればあとを片づけて退去するつもりであつた。しかも本件は普通の業務妨害と態様を異にし、学生等の脳中には、食堂とか、ロビーとか、第三者の物の占拠とかの意識はなく、全権団の渡米阻止と警察官に対する抵抗という意識しかなかつた。したがつて、被告人等には業務妨害の犯意がない。

(三)  学生等は、食堂への侵入およびその業務妨害について共謀したことは全くない。共同正犯の成立には疑問がある。

(四)  本件は、新安保条約の調印を阻止するための運動の過程で派生したものであるが、同条約は、明白に憲法に違反し、戦争の発生と基本的人権の抑圧とをもたらす危険の大きい条約である。岸内閣は、かような条約を非民主的な方法で締結しようとしており、大きな政治的効果をもつその調印は目前に迫つていた。したがつて、国民が同条約の締結に強力に反対し、その調印の阻止のために力を尽すことは、憲法上の権利であり、義務である。この観点からすると、空港ロビーに集合していた学生等を、強制的に排除しようとすることこそ違法であり、これに抵抗するため、学生等が食堂に入り、そこにとどまつたのは、刑法上正当行為、正当防衛または緊急避難として、違法性を欠く。

旨主張している。

二、弁護人の主張に対する判断

(一)  建造物侵入の犯意について。

(1) 証拠によると、食堂に立ち入つた学生等の中には、事前の調査またはロビーにいる間の見聞によつて、あらかじめその立ち入る場所が食堂であることを認識していたもの、(証拠略)立ち入りが開始される直前に、食堂にゆこうという趣旨の発言をきいて(証拠略)立ち入る場所が食堂であることを知つたもの、隊列の先頭にあつて扉を押し突くなどし、あるいは直ぐうしろからその状況をみるうち、立ち入る場所が食堂またはそれに類似する施設であることに気づいたもののあることが認められるが、その他の学生等についても、証拠上明らかな次の諸状況、すなわち、(イ)食堂は、ガラス壁等によつてロビーから明確に区劃されており、当時その扉の上方には英字のレストランという大きな標識が掲げられ、そのガラス壁には一面に新年の派手な飾りつけがほどこされていた(裁判所の検証調書、司法警察員吉開猛の実況見分調書、現場写真一一四、一一五、一一六、一一七、一二〇、一三四等参照)。(ロ)当時食堂の入口附近からは、一部消燈されていた内部の照明によつて、入つて直ぐ左側にある喫茶店風のカウンターおよびその前一面におかれていた多数の客用の椅子、テーブル等がみえるような状況にあつた。(ハ)立ち入りに際し、隊列の先頭の者と食堂の従業員との間に、扉のはげしい押し合いが行われ、一時隊列の進行がとまつた。(ホ)立ち入り口がきわめて狭く、しかも立ち入りがつづく間二枚の扉が各別に外側と内側とに開かれ、若干ゆれ動いていた。(ホ)学生等の立ち入りが続いているとき、食堂内には数名の食堂従業員がいて立ち入りや直ぐそれに続くテーブル、椅子の運び出しに抗議した等の状況、その他諸般の状況に徴すると、すくなくとも、いよいよ食堂に近づき、あるいはこれに立ち入ろうとした際には、そこが食堂またはそれに類似する施設(すなわち、ロビーとは明確に区劃された、これと全く性質を異にする建造物)であることに気づいていたと認められる。また学生等は、右のような認識をもつていた当然の結果として、なおすでに十五日午後十時五十分頃から繰り返しロビーからの退去を求められていたことからも、その立ち入る施設がなにびとかの管理に属すること、そこに判示のような態様で立ち入ることが管理者の意思に反するであろうことにも気づいていたと認められる。被告人等の当公廷における供述、その他弁護人の援用する被告人等に有利な一切の証拠を考慮しても、被告人等について右の認識を困難にするような特別な事情があつたとは認められない。したがつて、被告人等には、建造物侵入の犯意があつたと認定するほかはない。

(2) 学生等は、食堂に侵入しこれに迷惑をかけること自体を目的としていたわけではなく、当時の状況のもとで警官隊の強制排除に抵抗するためには、そこに立ち入るのもやむをえないと考えていたと認められる。また学生等は、何とかして全権団の渡米を阻止しようと思いつめ、かなり興奮していたので、その中には、食堂に立ち入ることについて、それが建造物侵入罪に問われるとか、違法であるとか考える気持の余裕のなかつたものもあると認められる。しかし、これらのことが何ら建造物侵入の犯意の成立を阻却するものではないことは、いうまでもない。

(二)  学生等の食堂侵入が建造物侵入の共同正犯と認められることについて。

(1) 本件の全証拠を総合しても、あらかじめ立てられた計画にもとづき学生等が食堂に侵入したと認めること、あるいは食堂侵入について学生等全員の間に事前の共謀があつたと認めることは困難である。しかし、証拠によると、すでにほぼ判示でも明らかにされたとおり、学生等が全権団の渡米阻止という共通の目的をもつてロビーに集り、この目的達成のために、警官隊により強制排除されるに至るまで協力して行動していたこと、この間学生等の行動には、指導者の指示等によつて、ある程度の統一が保たれていたこと、学生等が警官隊の到来を知るや、一せいに緊張し、その強制排除に抵抗するため、バリケードを作つたり、立ちあがつて隊列を組んだりする等活発に動き始めたこと、食堂侵入は、右強制排除に抵抗するための行動の一環として集団的、連続的に行われたものであること、その侵入の態様は、多数の勢威によつて食堂従業員の制止を困難にする等、各自互いに利用し利用される関係にあり、皆多かれ少なかれそのことに気づいていたと思われること等の諸状況が認められ、これらの状況に徴すると、学生等は、判示のような態様で、順次意を通じながら侵入したと認めるのが相当である。かように、学生等が全員建造物侵入という実行々為に出、しかもその間に意思の連絡があつたと認められる以上、その行為は建造物侵入の共同正犯と認めるほかはない。

(2) ただ本件については、学生等のうち、食堂に入ろうと呼びかけられ多少おくれて入つた者についても、他の全員との共同正犯が成立するかという問題がある。しかも、建造物侵入罪は、違法に建造物の中に入つたとき成立するが、同時に終了するわけでなく、違法に建造物の中にとどまる間継続する犯罪(一種の継続犯)であると解される(また当時、おくれた学生等が判示のように次々に食堂に侵入しつつあり、食堂に入つた学生等は後続の学生等を迎えながら、一体となつて活発に活動しつつある状態であつて、学生等の意図している共同の侵入は、全体としてはなお完了していなかつたとも認められる。)から、判示のような態様で、右の者と他の学生等全員との間にも、意思の連絡があり、共犯関係が成立すると解される。

(三)  食堂侵入後の学生等の行為が業務妨害と認められることについて。

(1) 学生等の行為が食堂の正常な業務の運営を妨げ、いわゆる業務妨害となることは、すでに判示自体によつて明らかにされていると思われるが、食堂が終業後であつた点等を考慮し、若干補足説明することとする。

(2) 食堂の営業時間は、通常は午前六時三十分ないし七時頃から午後十二時頃までであつたが、右時間外の深夜でも、航空機が不時に到着したときには、会社からの要請で直ちに開業し、乗客の接待にあたるのが例であつた。このような事情にあつたので、夜勤の従業員は、営業終了後直ちに店内を清掃し、客用のテーブル、椅子を正しく配置し、調味料のセツト、ナプキン等を整理し、補充し、什器、食品類を整頓し、いつでも開業できるよう万端の準備を整えたうえ、食堂内に宿直勤務すべきものと定められ、それが現に実行されていた(大門、秋山、吉本の各証言等参照)。

(3) 一月十五日も食堂ではほぼ定時に営業を終り、各区画ごとにそれぞれ清掃および準備を済ませ、翌十六日午前一時頃には大門博明等夜勤務従業員(調理場関係をのぞき約十二名)の大半が食堂内で休息していた。

(4) 学生等は、一部判示したように、(イ)従業員等の制止を排し、配備されていたテーブル、椅子等をほしいままにとりはらい、(ロ)それを食堂の入口附近等に積み重ねて、同所の通行を不可能にし、(ハ)食堂の客室一帯に坐りこんで、これを占拠し、食堂管理者等から退去を求められても、これに応ぜず(退去を要求する放送が学生等の了知しうる状態で行なわれたことにつき、(中略)全権団阻止のため明朝まで空港にとどまる決意で食堂内で強制排除に抵抗する態勢をかためて、(ニ)大門博明等従業員がバリケードの築かれていない唯一の通路である特別待合室への戸口から出入りしようとするといちいちこれを制止し、すぐに出入りのできないようにした。

(5) かようにして学生等は、食堂の経営上必要な営業準備態勢を一挙に破壊したのち、四時三十分頃まで、多数の勢威によつて、食堂側が右態勢を回復しようにもできないような状態を維持しつづけた(もし警察官の排除が行なわれなければ、その状態はさらに継続する筈であつた。)ものである。したがつて学生等の行為は明らかに食堂の業務の執行経営を阻害する状態を生じさせたもの(食堂の業務を妨害するに足りるもの)として、また同時に従業員の前記営業準備態勢を維持、回復する業務を妨害したものとして、刑法第二百三十四条にいわゆる業務の妨害にあたるといわなければならない。

(四)  業務妨害の犯意および共同正犯の成立について。

学生等がことさら食堂の業務を妨害する目的をもつて判示行為に出たものでないことは明らかである。しかし学生等は、それら行為をそれと認識し、また行為の性質上、それが(前記(三)のような意味で)食堂の業務を妨害するおそれのあることを認識しながら、全権団実力阻止という目的のためにはそれもやむをえないという気持からあえてこのような行為に出たものと認められる。したがつて業務妨害の犯意に欠けるところがない。

また学生等が右業務妨害を意思を通じつつ共同して実行したことは明らかである。(テーブル、椅子等のとりはらい、バリーケード作り等を実行しなかつた者、それらを認容しつつ、共同して食堂を占拠することによつて妨害行為に加功しているといわなければならない。)

(五)  違法性阻却の主張について。

(1) 前述のとおり、ロビーに参集した学生等は、全権団の渡米を実力に訴えても阻止しようと考えており、そこで開かれた集会でも、その趣旨が強調された。学生等のいわゆる「実力阻止」(羽田への参集を呼びかけるビラ等にはこの言葉が用いられていた。)の具体的形態は、必ずしも明確でなかつたが、少なくとも、状況次第では多勢でスクラムを組む等、集団の力(有形力)によつて全権団の行動の自由を妨げ、その出発を不可能または困難にする意図をもつていたと思われる。(本件被告人等の各供述、山下、佐々木、二見、坂野、緑川、下土井、の各証言、裁判所の井上、庄島に対する各尋問調書、全学連書記局通達二通、社学同書記局通達二通、「戦旗」二枚、共産同ビラ三枚等のほか、前示各証拠によつて認められる判示のような学生等の行動全般参照)

(2) このような「実力阻止」が憲法上正当な行為といえるであろうか。

憲法は、内閣に条約締結の権限を与え、ただし「事前に、時宣によつては事後に、国会の承認を経ることを要する。」と定めている(第七十三条第三号)。岸内閣は、この条約締結にもとづいて、安保条約改定(新安保条約の締結)の交渉を進めたうえ、昭和三十五年一月十九日に条約の署名を済ませ、署名後批准前に国会の承認を求めることを予定していた。(憲法第七十三条第三号但書にいわゆる「事前」および「事後」とは、条約の締結に必要な日本国の意思を最終的に決定する前後、すなわち条約が全権委員の署名によつて成立する場合には署名の、署名および批准によつて成立する場合には批准の、各前後を意味すると解されるところ、安保条約は、その第八条の定めるところに従い、署名および批准書の交換によつて成立するものとされていたから、岸内閣は、事前に国会の承認を求める態度に出ていたわけである。この点は、弁護人がこれと異なる意見を強調しているので特に附記した。)

当時国民の間では、同条約が憲法に違反し、かつ戦争の危険をもたらすものとして、その締結に強く反対する意見が有力であつたが、その締結を積極的に支持し、または認容する意見も多く、国民の圧倒的多数がそれを絶対許すべからざるものと考え、主張していたわけではなかつた。(これは公知の事実と思われる。なお各新聞の縮刷版、等参照。)

また、法理的に同条約が争う余地のないほど明白に憲法に違反しているといえないこと、それが戦争の危険をもたらすおそれがあるかどうかは、国際政治に対する理解等の相達により異なる結論に到達するであろうこと等は、前記のとおりである。

以上の諸事情を考えると、同条約に関する種々の問題点は、署名後批准前の国会で当然審議判断されるべき事柄として、いかにその内容に不満な者も、ただ合法的な政治活動(憲法第二十一条等参照)等によつて世論に訴え、国会の審議判断に影響を及ぼすような方法の限度にとどまるべきであつたといえる。いわば、このようにして、直接には国会の、間接には国民の民主的な規制によつて、内閣の専断を防止することが、憲法の精神であり、原則であると解されるのである。

昭和三十五年一月十六日以前の、条約改定にのぞむ内閣の態度、国会の運営について種々批判さるべき点があり、以後の条約審議にあたつても同様のことが繰り返される懸念があつたとしても、それは右のような民主的な方法によつて規制し、是正すべきものというほかなく、その他弁護人主張のような諸般の政治的、社会的状況を考慮しても、全権団の出発を空港等において集団の有形力により阻止することが憲法上正当なものとして許容されるとは、とうてい考えられない。

(3) ロビーは、航空機の乗降客とその関係者の待合、歓送迎等のために設けられた広間で、ビル会社の所有に属し、その職員により管理されるとともに、空港の施設の一部として、航空法および空港管理規則により東京航空保安事務所の長の管理下におかれていた。それは、航空機が発着する時間内は一般に開放され、誰でも自由に出入り、できるようになつていたが、前記の使用目的に反する目的ないし態様でロビーに立ち入り、またはとどまる者に対しては、ビル会社の職員は、これを制止し、退去を求めることができ、また航空保安事務所の職員も、右立入り等が秩序を乱し、または他人に迷惑を及ぼす(空港管理規則第十八条第十四号参照。)おそれがあるときには、同じく制止または退去を命ずることができる。(同規則第二十二条第六号)ことになつていた。(証拠略)したがつて学生等が判示のような目的でロビーに集つて集会を開き、航空機の発着が終つたのちもとどまつて気勢を挙げたような場合、ビル会社および航空保安事務所の各管理者が協議のうえ退去を要請したのは、当然の措置というべく、学生等としては、右の要請にしたがわない場合、強制的に排除されることになつてもやむを得ない。学生等が、警察官が強制排除の態勢をととのえつつあることを察知し、これに抵抗するため食堂に侵入し、その業務を妨害したのは、違法というほかなく、刑法上正当防衛、正当行為、緊急避難のいづれにもあたらないと解すべきである。

(四・二六事件の弁護人の主張に対する判断)

一、弁護人の主張の要旨

四・二六事件の弁護人は、(一)(1)被告人人六名が昭和二十五年東京都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例(以下公安条例という。)にいわゆる集会指導について事前に共謀したという証拠はない。全学連、都学連、共産同、社学同の四団体がそれぞれビラ等で昭和三十五年四月二十六日の国会請願デモを呼びかけていたこと、被告人等が右諸団体のいずれかの役職についていたことから、当然に被告人等が事前に集会指導を共謀していたということにはならない。また、被告人等が現場で話し合つて行動者を定めたと認めることも困難である。藤原、陶山は、いわゆる都自代会議に加わつておらず、糠谷も会議の行われている周囲を歩き廻つていたにすぎないからである。(2)唐牛、篠原、志水、陶山の四名が学生等と公務執行妨害について共謀したという認定も困難である。学生等全体には、被告人等の演説をよくききとれなかつたし、彼等自身安保を危険なものだと感じ期せずして一致して車を乗り越えていつたものと思われる。(二)被告人等六名は、自己の行為を思想表現の自由、請願権の行使として正当なものであると評価していたばかりでなく、公安条例については―たとえ合憲であるとしても―当時東京地裁においてこれを違憲とする判決があつたこと、特に藤原は、昭和三十五年四月十五日公安条例違反の被疑事実について逮捕されたが、同月十七日公安条例は違憲であるという理由で東京地方裁判所裁判官から勾留却下の裁判をうけていたから、公安条例に違反することについての違法性の認識を欠き、かつそのことは社会通念に照らして是認されるべきであるから故意を欠如する。(三)新安保条約は、日米の軍事同盟的性格を有する条約として明らかに違憲であり、その審議過程にも違憲の疑いがあつた。したがつて、昭和三十五年四月二十六日という決定的な時期に、その成立を阻止するために国会正門に向つて請願の行動をとることは抵抗権の行使又は刑法第三十五条の正当行為として許されるべきである。(四)公安条例は憲法に違反する。同条例第一条の但書は学生、生徒その他の遠足、修学旅行、体育競技および通常の冠婚納祭等慣例による行事を規制の対象からはずしているが、そのことは逆にいえば、思想表現の自由とその集団行動のみを規制の対象としているとみられること、法文には公共の場所、公共の安寧などという抽象的な概念が用いられ、法の対象が具体的に定められていないこと、警察当局の公安条例の許可基準が、一般に公開されていないばかりか恣意的であること等からみて憲法第二十一条の表現の自由に違反するものである。公安条例についてはさきにこれを合憲とする最高裁判所の判決があつたが、右判決は誤りであり、またこの裁判所を拘束するものではない。(五)被告人等の行為は請願権の行使として正当なものであつた。請願とは、請願法に規定された請願のみでなく、平穏の要件をみたす限り、その時その社会における最も効果的な方法をとることが許される。被告人等を含む学生等が一人一人請願書を持つて国会に向う行為も請願権の正当な行使方法であり平穏なものである。当日警官隊がこの正当な請願行動を阻止することがなかつたならば混乱は起らなかつたであろう。

旨を主張する。

二、弁護人の主張に対する判断

(一)  被告人等の間には、公安条例違反(集会指導)および公務執行妨害についての共謀が存在しないという主張について。

本件の全証拠を総合しても、被告人等が、昭和三十五年四月二十六日以前に判示場所で判示のような集会を開きこれを指導することを共謀していたと認めることは困難である。しかし、全証拠によると同日の被告人等の行動については、

(1) 午後一時三十分頃篠原がB型広報車の上で演説し、ついで同人の司会で各大学代表の挨拶が行われたこと。(判示〔事件事件に至るまでの経過を含む。以下同じ。〕参照)

(2) 午後二時前頃挨拶の行われているB型広報車の上で陶山が唐牛と、次いで藤原と話合いをしていたこと。(証拠略)

(3) 午後二時頃藤原、篠原によつて隊列の変更が指示され、次いで藤原が都自代、関東自代を開くから各大学の代表は集まるように指示した。(判示参照)

(4) 都自代、関東自代は唐牛、篠原を中心にして円陣を作つて行われたが、陶山、糠谷、志水、篠原は、その円陣のすぐ近くにいたこと。(証拠略)

(5) 右代表者会議が終つた直後B型広報車を演壇として行われた集会の司会を糠谷がし、続いて早稲田大学の小型トラツクを演壇として行われた集会の司会を志水がしていること。(証拠略)

(6) 陶山、篠原、唐牛の演説は早稲田大学の小型トラツクの上で行われたのが、その内容には車輛阻止線を乗り越えて国会に行こうという趣旨を含んでいたこと。(証拠略)

(7) 早稲田大学の小型トラツクを演壇とする演説が終つた午後四時頃、陶山、唐牛、志水、糠谷等が右トラックの上で話し合つていた。(証拠略)

(8) 右の後志水が音頭をとつて「装甲車を乗り越えるぞ」等のシュプレヒコールを行い、唐牛は「諸君一歩一歩前に進もうではないか」という呼びかけを行つていること。(判示参照)

(9) 志水は、午後四時三十分頃尾崎記念館に集まつた学生等を指揮し構外に出ようとして警官隊に突き当り、陶山は、同時刻頃第三次車輛阻止線の上でメガホンを持つて後方の学生に前進を指示するような態度をとつていたこと(証拠略)

等の諸事実が認められ、これらの事実を総合すれば、おそくとも同日午後二時二十分頃から四十分頃にかけ都自代、関東自代が開かれた頃には、被告人等六名の間に、集会指導についての共謀が成立し、右共謀にもとづいて判示のような指導が行われたと認めるのが相当であり、また同被告人等中唐牛、篠原、志水、陶山の四名は、同日午後四時頃志水の音頭によつてシュプレヒコールが行われる頃には、相互に、また他の学生等多数の者と互いに意を通じ、判示の車輛阻止線を乗り越え警官の抵抗を排して国会正門の方向に進もうと企てたこと、右前進の過程において警官に対し少なくともその身辺に跳び降り、押し、突き当る等の有形力を行使するであろうことを認識していたことが充分に認められる。したがつて、弁護人の主張は理由がない。

(二)  公安条例違反の点について違法性の認識がなく、違法性の認識がないことは社会通念に照らして是認されるべきであつたから、故意を欠くという主張について。

先に東京地方裁判所において公安条例を違憲とする判決がでていたこと、特に藤原は公安条例が違憲であるという理由で、昭和三十五年四月十七日勾留請求却下の裁判をうけていたこと(中略)等からみて、被告人等特に藤原が公安条例は違憲であるとの確信を深めていたであろうことは窺われる。しかし、当時同じ東京地裁で公安条例を合憲として勾留状を発せられた者も多かつたこと、右公安条例を違憲であるとする地裁判決に対しては上告がされて最高裁に係属中であり、確定していなかつたこと等の事情に徴し被告人等が、公安条例は違憲であるとの主観的確信は別として、右違憲判決が最高裁でそのまま承認されると信じていたかどうかの点については疑問がある。(中略)のみならず、公安条例を集会、集団行進に関する限りは合憲であるとする東京地方裁判所の他の部の判決もあつたことに徴すれば、たとえ被告人等、特に藤原が公安条例は違憲であり裁判所の判断としてもそうであると信じていたとしても、最高裁判所の判決がでていない以上、右のように信ずることが社会通念に照らして是認されるとはいえない。

(三)  新安保条約は違憲であり、それが反憲法的な審議過程によつてまさに成立させられようとしていた四月二十六日の時点において、その成立を阻止するために被告人等のとつた行動は、抵抗権の行使であり、または刑法第三十五条にいわゆる正当行為であつたという主張について。

(1) 新安保条約が高度の政治性を有し、かつ一見極めて明白に違憲無効であると認められないこと等については先に述べたとおりである。

(2) 政府自民党が当時新安保条約の成立を急いでいるような印象を与えていたことは疑いなく、参議院における自然成立を期するためには会期の延長がない限り四月二十六日までに衆議院の議決を必要としたことは判示のとおりである。また衆院安保等特別委員会における政府側の答弁が野党側の質疑に対し誠実味を欠く憾みのあつたことも否定し得ないであろう。

(3) しかし、前記のとおり新安保条約が明らかに違憲であるといえない以上、それに対する批准阻止の運動も現行法秩序のわく内で行われなければならないことはいうまでもなく、弁護人の主張する抵抗権または正当行為の主張はその前提要件を欠くことになるから採用することができない。

(四)  公安条例は違憲であるという主張について。

公安条例が違憲であるといえないことについては、前に(一一、二七事件の弁護人の主張に対する判断)述べた。

(五)  被告人等の行動が請願権の正当な行使であるという主張について。

請願権行使または行使に至るまでの態様が他の法規に触れるときはその法規による制約をうけ、公安条例に違反する状態が出現すれば右条例にもとづいて規制の措置がとられるのもやむを得ないこと等は前に(一一、二七事件の弁護人の主張に対する判断)述べた。被告人等を含む学生が国会に向つて進んでいつたのか、個別的に請願をする目的であつたとしても、その過程において集団行進(たとえば江南の引率する約二百名の東大生)または集団示威運動の形態をとつていた以上、警官際によつて公安条例に基づく制止をうけることがあるのはやむを得ないし、右のような警官隊の措置を特に違法ということはできない。

(法令の適用)

法律に照らすと、被告人等の判示所為中一(一一・二七事件)の各建造物侵入の点は、刑法第百三十条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に、二(羽田事件)の建造物侵入の点は、刑法第百三十条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に、威力業務妨害の点は、同法第二百三十四条第二百三十三条第六十条罰金等臨時措置法第二条第三条に、三(四・二六事件)の昭和二十五年都条例第四四号集会、集団行進及び集団示威運動に関する条例違反の点は、同条例第一条第五条、刑法第六十条に、公務執行妨害の点は、刑法第九十五条第一項第六十条に、それぞれ該当するところ、二の建造物侵入と威力業務妨害とは手段結果の関係にあるから、同法第五十四条第一項後段第十条により重い威力業務妨害罪の刑に従い、以上の各罪につきいずれも懲役刑を選択し、被告人糠谷の一の建造物侵入罪と三の昭和二十五年都条例第四四号違反の罪、被告人唐牛、同篠原の二の罪と三の昭和二十五年都条例第四四号違反の罪と公務執行妨害罪、被告人篠原の二の罪と三の昭和二十五年都条例第四四号違反の罪、被告人志水速雄、同陶山の昭和二十五年都条例第四四号違反の罪と公務執行妨害罪とは、それぞれ刑法第四十五条前段の併合罪であるから、同法第四十七条第十条により被告人糠谷に対しては建造物侵入罪の、被告人藤原に対しては威力業務妨害罪の、被告人唐牛、同篠原、同志水、同陶山に対しては公務執行妨害罪の各刑にそれぞれ法定の加重をした刑期範囲内で、各被告人を主文第一項の刑に処し、被告人唐牛、同篠原に対し、刑法第二十一条により未決勾留日数中百八十日を右各本刑に算入、被告人佐藤に対し、同法第二十五条第二項により、同被告と被告人唐牛、同篠原とを除くその余の被告人等に対し同法第二十五条第一項により、本裁判確定の日から二年間右各刑の執行を猶予し、被告人佐藤に対し同法第二十五条の二第一項後段を(同被告人は、昭和三十五年十一月二十九日東京地方裁判所において建造物侵入罪および傷害罪により懲役八月、執行猶予二年の判決を受けた〔同判決は同年十二月十四日確定〕者である、被告人志水に対し同条項前段を適用し、同被告人等を執行猶予の期間中保護観察に付し、訴訟費用は、被告人等が貧困のため納付することのできないことが明らかであるので、(被告人等は弁護人を私選しているが、被告人等の当公廷における供述等によると、被告人等は、いずれも充分な収入を得られる定職をもたず、苦しい生活を送つているものと認められ、弁護人の活動は、報酬等を度外視した奉仕的なものと察せられる。)刑事訴訟法第百八十一条一項但書に則り被告人等に負担させないこととする。

(量刑の事情)

(一)  本件各事件は、年余にわたつて行われた安保改定阻止運動の過程で発生した一連の事件のうちの最初の段階のものである。これらの事件に共通していることは、(1)被告人等の大多数は、現に大学で勉学中の学生で、年令もわずか二十二、三才であること、一番年長の者でも年令三十才に満たず、大学を卒業して数年しか経ていないこと、(2)本件各事件は、それぞれ各関係被告人等の共同犯行と認められるが、ほぼ同様の行動に出たとみられる者は、他に、一一・二七事件において一万名以上(学生、労組員、その他の者をふくむ。)、羽田事件において約六百名(少数の労組員をふくむほか全部学生)、四・二六事件において約五千名(前同)に及んでいること、(3)これら事件は、いずれも安保改定阻止という目的をもつ集団行動の過程で発生したものであるが、被告人等は、特にその中で過激な行動に出たもの、あるいは過激な行動に出た団体の指導的立場にあつたものとして起訴されたこと等である。被告人等の法的責任を論ずるにあたつては、右の諸点に留意するとともに、なぜかような事件が発生したかを当時のわが国内外情勢との関連において堀りさげて考察する必要がある。

(二)  思うに、安保改定のように、世論が賛否両論に大きく割れるような、国の基本政策については、特に慎重な態度をとることが望ましい。安保改定阻止運動が次第に激しさを加え、参加人員を増していつたのは、主として、安保問題に関する融和しがたい政治的、思想的対立が問題の具体化、切迫化につれてあらわになつた結果であるとは思われるが、安保改定の進め方に対する不満も、その一因をなしていなかつたとはいえない。かような事情があつたとしても、前記のとおり、安保改定が客観的に明らかに違憲であると認められない以上、安保改定阻止のための運動も、これについていわゆる「抵抗権の理論」など認める余地がないものとして、あくまで実定法秩序を尊重し、合法的に行われるべきであつたといわなければならない。かような方法は、問題の切迫した当時の状勢のもとでは、いかにも生ぬるい方法のように感ぜられるかも知れないが、これこそは、まさに人間の理性の権威とその窮極の勝利を信ずる民主主義の強く要請するところであつて、一時は敗退するようにみえても、結局は、その方が、大きな眼からみると、無用な犠牲や反動をもたらすことなく、合理的成果をおさめることになると思われる。被告人等の属する全学連、社学同、共産同等の反対運動が、終始合法の線を守ろうとした国民会議の基本方針からはなれ、次第に過激に斗争的になつていたのは、まことに遺憾である。(特に本件に関連して押収された多数のビラ等によると、この種の書類の性質、当時の被告人等の思いつめた気持をくむとしても、ことさらに世間を騒がせるような、あるいは目的のために手段を選ばないような考え方が観取され、一層遺憾な感じがする。)

(三)  各事件の背景やその態様は、詳細に判示したとおりであるが、各事件について特に問題となる点を指摘すると、一一・二七事件については、国会機内には被告人等のほか一万名以上の学生、労組員等が侵入したこと、全学連等のビラによると、学生の一部はあらかじめ国会侵入を意図していたのではないかと疑われる節があること、当日の行動は、学生が最も活発であり、国会正門からの第一回目の侵入についても学生が、積極的に先頭に立つて動いていたこと、侵入後間もなく労組員等が議員の説得によつて退去していつたのに、被告人等が議員等による退去の説得にも容易に応じなかつたこと、国会構内にかような形で立ち入ることが許されることでも望ましいことでもないこと、羽田事件については、深夜多数で食堂に侵入してこれに多大の迷惑をかけたこと、明朝まで食堂内に踏みとどまろうとしたため、警察官の実力排除を受けることとなり、その結果食堂に多額の物的損害を加えたこと、羽田空港の国際空港としての性格にかんがみ、内外の反響は必ずしも好ましいものでなかつたこと、四・二六事件については、公務執行妨害の規模が大きく、学生等の行動が積極的であつたこと、このため警察官と学生等の双方に多数の負傷者を出したこと等である。

四、右各反対斗争における被告人等の態度には、法や秩序を無視し、たび重なる当局の警告や他の者の説得に耳を籍さず、しやにむに目標に向つて突き進んでいつた傾向が強く、その行動は、到底良識ある社会人の行動とは認めがたい。審理の過程で被告人等に接した印象によると、被告人等は、ほとんど皆、個人的には、むしろ粗暴な振舞いに反情を示す理性的な、教養ある青年と認められるが、各事件にあらわれた結果には、必ずしもそういえない面がある。これは、概して反権力的な傾向をもつ、血気盛んな学生の集団が自ら正しいと信ずる行動の過程において取締りにあたる警察官と対峙あるいは接触する場合に、あの程度不可避的に発生する結果と思われるが、その中には、一部の学生の、指導者の意図する範囲をこえた過激な行動による結果もないとはいえない。たとえば、一一・二七事件において学生の中に国会正門の門扉を破壊したものがあること、四・二六事件において警察官に対し投石した者があること等が、その例である。

(五)  学生といえども、政治活動にたずさわる以上は、その結果について、社会人としての責任をまぬがれることはできない。被告人等の主観的意図や理想はとにかく、すくなくとも結果的に、法秩序を乱し、国あるいは第三者にすくなからぬ損害を与え、国民に大きな衝撃を与えた全学連等の行動について、その指導的立場にあつてそれに関与した被告人等の法的責任は、重大であるといわなければならない。

(六) しかし、被告人等の刑責を定めるについては、(1)被告人等の行為がいわゆる暴力犯的な性質のものでないこと、たとえば、運動の手段としての有形力の行使にしても、スクラムを組んで警察官等に突きあたることを主とし、何ら兇器を使用していないこと、羽田事件においてできるだけガラス器等をこわさないように配慮した形跡があること、(2)被告人等の運動方針、行動等がきわめて開放的で、そこにほとんど暗さや隠険さがないこと、(3)各事件に数千あるいは数百の学生が加わつて積極的に行動している点をみると、これらの事件も、特定の過激な思想にもとづく行動の結果と割りきるよりも、その実体は、若い世代の、今日の政治や政治家に対する強い不信、虚偽に満ちたいわゆる「大人の世界」に対する押えがたいふんまん、社会の矛盾に対する激しい憤り、原子戦争に対する危機感等が安保阻止斗争の過程において、爆発していつたと解する方が一属適切でないかと思われること(このことは、被告人等がほとんど皆新憲法施行当時は小学上級生ないし中学下級生で、絶対の平和、無防備、戦争放棄等が憲法の精神であると教えられこれを信じてきたと思われること、一番感受性の強い高校時代から大学時代にかけて、憲法問題に関する論争が国会の内外で激しく行われていたこと、この論議を通じて権力の座にある者、支配階級に属する人々自身が憲法の精神を無視しこれをふみにじりつつあるのではないかという強い印象をうけたと思われること、経済学、社会学等の研究を通じ、現実の国際社会の表裡、国内体制の矛盾に眼を向け始めたと思われること等の事実から察知される。被告人等の供述参照。)、(4)被告人等が皆真面目な優秀な青年で、いまだ勉学中の身であること、そして今や大半は全学連等の指導部から身をひいていること、(5)本件で勾留され起訴されたことによつて既に社会的に種々の不利益をうけていると思われること、(6)本件の各事件は、安保改定をめぐつて国内が騒然としていた異常な政治状勢のもとで発生したもので、かような不幸な事態は、容易に二度と起らないであろうと予想されること等の事情も十分斟酌されなければならない。各事件は、いずれも重大であつてその間に甲乙をつけがたいが、概していえば、その態様、結果等からみて、羽田事件が最も重いと思われる。被告人等の個別的事情について一言すると、唐牛は、全学連委員長として羽田事件および四・二六事件について最高の指導的立場にあつたもので、その責任は最も重く、篠原は社学同委員長兼全学連中央執行委員として右両事件において指導的、積極的役割を演じたもので、その責任は唐牛についで重いと認められる。この両名については、その人柄、将来性等にかんがみ、情においては忍びないものがあるが、本件を有罪と断ぜざるをえない以上、主文第一項記載程度の各実刑を科するのは、やむをえないと考える。その他の被告人については、各事件において演じたそれぞれの役割、その他前記の諸事情を考慮して主文のとおり刑を定め、いずれもその刑の執行を猶予することとした。(なお刑の量定にあたつては、他の部に係属中の事件のことは一切考慮しなかつたことを附言しておく。)

そこで主文のとおり判決する。

昭和三十六年十二月二十二日

東京地方裁判所刑事第八部

裁判長裁判官 横川敏雄

裁判官 緒方誠哉

裁判官 吉丸真

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